1年前まで同級生だった友人たちの論文発表会があった。
1年は長いようで短い。
でも1年という時が流れたことは変わらない事実。
久しぶりに出会った友人たちは
しっかり、確実に大きくなっていた。
そんな彼らの論文発表で、自分の制作に対して疑問に思ったことが一つある。
「自分の“色”を出していくような表現を強く出してしていきたいのか。
または“染でしかできない”表情をもっと追求していきたいのか。」
※このときの“色”の意味は、自分にしかない個性のような意味。
今回はこの疑問を解くための
答えにたどり着くまでの道のりを歩いていくような
文章を書いていきたいと思う。
インドに行くまでの自分の制作は、
染色と布・防染技法から生まれる新しい表情の研究という
素材の研究をメインとした制作だった。
その制作の中に、自分の個性の主張となるような表現
(例:私の中の青というイメージは、世界の平和を意味しています など)
を入れ込んでいくことで、もっと作品が良くなるのではないかと考えていた。
だが論文発表を聞く中で、
「自分が主体としてやっていきたいことは、一体どちらなのだろう」
と、ふと考えた。
今までは、どちらかに決めなくてはいけないことではない気がしていた。
だがそれは、どちらを優先したいかという決定打がないことから生まれた
漠然とした理由からなる、ただの言い訳のようなものだったのではないかと思う。
その漠然としている考えを
どちらか一つに決めることで、
より明確でわかりやすい作品が作れるのではないだろうか。
そして今わかっていること。
デカルコマニーには、たくさんの表情がある。
だけれど私は、そのたくさんある表情の中から
数種類の模様を好み、多用する傾向がある。
自分の意志で選別をしているということは、
もうその時点で
自分が何かを表現したいという
意識の表れなのではないだろうか。
ほんの少しの理由からだが、このことから
「私は染でできる新しい表情を追求したいのではなく、
自分には表現したいものがあるようである」
ということができるのではないだろうかと
今は考えている。
これからも私は手を動かしながら
考えを張り巡らせていく。
そこから見えてくる答えが、
また別の答えにつながっていくのかもしれない。